歴史

2010年3月20日 (土)

咸臨丸渡米150周年

 今から150年前、1960年3月17日にわが国の軍艦咸臨丸が始めて太平洋を横断して、米国サンフランシスコ港へ航海した。
 この偉業を記念して、丁度150年目に当たる3月17日にサンフランシスコ港に記念の銘板が設置され、長嶺安政サンフランシスコ総領事や地元日系人、港湾関係者ら100人以上が出席して式典が行われた…、と共同通信が報道していた。
 銘板は縦約45㎝、横約70㎝の青銅製で150年前に咸臨丸が着いた地点近くにある桟橋前の路上に埋め込まれた、とある。

 咸臨丸は1956年オランダ製で620トン、100馬力の木造蒸気船で3本マストである。
安政7年1月19日に浦賀を出帆して、2月26日にサンフランシスコへ着いたが、途中ひどい嵐の連続でマストが1本折れたのをはじめ船体の損傷もひどく難破船同然の状態となり、しかも乗員は中浜万次郎を除いて全員がダウンしてしまった。
同乗していたアメリカのブルック大尉と10人の兵士のみによって、なんとかサンフランシスコへ到着した。しかしこの事実は、リーダーシップの発揮出来なかった軍艦奉行木村摂津守、さんざん威張っていたが行動力0点だった勝麟太郎等の名誉を傷つけないように、そして日頃よりの対アメリカ人感情等々により戦後まで一切伏せられていた。

 航海中に過労で死亡した3人の水夫はサンフランシスコで埋葬された。
傷みのひどい咸臨丸はブルック大尉の好意で海軍工廠で修理を受け、費用は全額米国が負担した。
またブルック大尉には、この渡米の直前までジョセフ・彦も世話になっていた。
  ※ 日付は米国側は米国時間、日本側は旧暦とした

2009年9月 3日 (木)

工楽松右衛門のこと

Photo 兵庫県高砂市の高砂神社境内にある
工楽松右衛門の銅像、腰には大小を差している

 高砂町史誌によると、工楽(くらく)松右衛門はわが国帆布製造の始祖といわれる。
 寛保3(1743)年にこの神社の近く東宮町の漁師の長男として生まれたが、幼時から豪胆で機智に冨み、工夫創作することを好んだという。15才の時家出し兵庫に行って船頭になった。

 「松右衛門帆」を発明
従来の帆布は絹布を二、三枚重ねて細く綴り合していたものであるが、松右衛門は工夫を重ね、木綿の太い糸に替え、帆布の継ぎ目にはすき間をあけるとか色々工夫を織り込んだもので、従来の物よりも操作が楽で風はらみもよく、船の安定もよくなり、しかも何より安価なので大変な評判となった。
 天明5(1785)年二見(明石市二見町)に織物工場をつくって大量生産したが、軽くて扱いやすく耐久性にすぐれていたので、またたく間に全国に広がった。

「択捉島に埠頭を築く」
 幕命を受けて、寛政2(1790)年千島の択捉島に渡り、埠頭の建設にかかり翌年完成させた。その後に最上徳内、近藤重蔵などが択捉島へ上陸している、
享和2(1802)年ついに近藤重蔵が高田屋嘉兵衛の協力を得て、日本の領土であることを示した木柱を建てたのである。
松右衛門の埠頭完成から11年後ということになる。
 享和2(1802)年この功により幕府より工夫を楽しむという意味の「工楽」の姓を与えられた。
 文化元(1804)年に函館にドックを造った。その他高砂・鞆津・多度津などの港を築いた。
 文化10(1813)年70才で世を去った。 

2009年6月 3日 (水)

横浜開港とジョセフ・ヒコ

 6月2日は横浜開港記念日。そして今年は150周年に当たることから「開国博Y+150」が開かれている。なんでもアメリカ使節ペリー一行がウンザリしたという饗応料理のメニュー等も展示されているとか。
 安政6(1859)年5月29日アメリカ駐日公使ハリスは上海で、ミシシッピー号艦上において漂流人の彦太郎と会い、通弁官に任命した。
6月18日ミシシッピー号は長崎に着く、彦太郎は漂流以来実に9年目にして日本の土を踏んだのである。
6月30日神奈川へ到着
7月1日横浜が開港した(旧暦では6月2日)
翌万延元(1860)年2月遣米使節団が出発すると、その後まもなく彦太郎は公使館を辞任した。
※ 彦太郎は安政元(1854)年10月にボルチモアで洗礼を受け、ジョセフの名を得る。
  安政5(1858)年6月にボルチモアで、帰化してアメリカ市民ショセフ・ヒコとなっていた。  

2009年4月10日 (金)

幕末狙われた日本 アメリカの場合

 1845(弘化2)年アメリカはメキシコからテキサスを略奪した
アメリカのフロンティア拡張政策は西海岸に達しハワイ島を手中にした、そして太平洋を越えてアジアへの攻略が現実化してくる、その中継地として日本列島が注目視されだした。
 この頃太平洋においては捕鯨が華々しく、アメリカ船735隻、その他の国が230隻出漁して年間1万頭のマッコウクジラが捕獲されていた。
 アメリカは捕鯨船の補給地として日本が重要であると考えるようになった。
 1848(嘉永元)年アメリカ国務省は「艦隊は直接江戸へ向かわせ、将軍もしくは幕府の部局の長に面会せよ、それ以外の下級役人などには接触を要せず」、「江戸湾を封鎖して品川を押さえよ」
 1853(嘉永6)年7月8日アメリカ・ペリー提督が浦賀に来航。
2本の白旗と一通の書状が入った箱を日本側へ差し出した、「日本が鎖国の国法をたてに通商を認めないのは天の道理に背きその罪は大きい。通商を開くことをあくまで承知しないならば、我々は武力によってその罪を糾す。日本も国法を盾に防戦するがよい、戦争になればこちらが勝つに決まっている。降伏するときはこの白旗を掲げよ。アメリカは砲撃を止め和睦することにしよう」
 撤退時は江戸湾深く進入して来て威嚇して帰った
 ぺりーは日本へ来るのに行程がかなり遅れたために、上海で収容すべき人質の永力丸の漂流人が1名しか残って居なかったので激怒したが後の祭りだった。
 1854(嘉永7)年2月13日ペリー再来航。
           3月31日半強制的に日米和親条約を締結
 アメリカ側は日本と交渉を重ねるにうちに、日本人の賢さ、強さ、何よりも統制のとれた上下関係等から、日本に対する認識を見直したと思われる。
 例えば小型の汽車や通信機等の土産で度肝を抜くつもりだったのが、直ぐに慣れて簡単に操作したので仰天したという。
 また祝砲と称して軍艦から大炮を威嚇を含めて打ち上げると、大音響には驚くものの空砲と分かるや、「待ってました !  たまやー」なんて喜ぶ様に唖然としたという


 

2009年2月23日 (月)

ペリー二世

 嘉永6(1853)年6月にアメリカ大統領の親書を持って来日。
翌7年再来日して3月3日には日米和親条約を締結したペリーは任務を果たして帰国。
 その後安政5(1858)年64才で世を去った。来日時参謀長アダムスともう一人ペリーの子息が秘書として同伴していた。
 万延元(1860)年アメリカへ返書を持って行った使節団をペリー二世が招待して饗応した、30人余が出席したところペリー二世は、日本で大変世話になったと感謝の意を述べ、日本側が贈っていた蒔絵の什器で日本料理・日本酒のもてなしをしたという

2009年2月16日 (月)

ペリーが江戸へ再来航

 第12代将軍家慶の死去を香港で聞いたペリーは、日本幕府の混乱に乗じて一気に攻めようと約束の1年を待たずして、日本の正月早々に蒸気船ボーハッタン他を加えた7隻で江戸まで乗り込んで来た。
 以下日米和親条約締結までの様子を追ってみると
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)ペリー艦隊が江戸に現れる
3月8日 日本側が横浜で接待 料理の費用2000両。浦賀奉行、江戸の与力・同心合せて約200人、遠巻きの警備は真田信濃守・小笠原左京大夫の各軍勢。
アメリカは約700人が上陸その内鉄砲隊が360人、見物は数千人、艦隊から祝砲計38発を打上げたが実は威嚇戦術の一つだった。
3月10日 漁業は平常行ってよいが、異船へ近づかないようにとの触書が出された
3月11日 江戸から飛脚で真田陣営へ触書が届く、応接の具合によっては彼より戦いを仕掛ける恐れ有り、油断せず準備を怠るな。と
3月13日 二度目の応接、上陸者は約400人。
アメリカ側から日本への贈物リストを提出、小型蒸気車、通信機、酒の類、農機具他が水揚げされた
3月24日 日本からアメリカへの贈呈品の目録を授ける
贈呈品の内五斗俵(約56キロ)200俵を力士75人が担いで運んだ、裸の力士を見て不思議がるのでプロレスラーだと説明したら納得したそうである
3月27日 アメリカ側は日本人約70人をボーハッタンに招待
スループ船マラドニアンの船内を見学した後ボーハッタンにてパーティーを開いた、ぺりーは林大学頭他5人を特別接待した。
3月31日 日米和親条約が締結された、アメリカ側は500人の兵士が上陸してきた。
この日まで日米交渉が断続的に続けられた。
又幕府側の接待は7回、贈物は12回行われている。
交渉が蒸気船内で行われた時はその都度馳走を受けていた。
4月14日 ペリー艦隊は横浜から下田へ行く
6月1日 ペリー艦隊は下田を退去して琉球へ向かった
※日付は外国絡みの場合相手側の資料との関係、また閏月のややこしさ等から新暦(西歴)にしております

2009年2月12日 (木)

アメリカ使節ペリーが国書提出

 1852年に東インド艦隊司令長官となり、続いて遣日特派大使を兼任となったペリーは、琉球(沖縄県)、小笠原諸島の占領計画を持って日本へやって来た。
アメリカ第13代大統領フィルモアの国書を手交して日本の開国を要求し、翌年を約して退去した。
 1953年7月8日(嘉永6年6月3日)ペリー率いる黒船が浦賀沖に現れた、浦賀奉行の組与力中島三郎助は陣羽織を着て御船印を差出しペリーの乗っているサスケハナへと乗込んだ。しかし役不足と門前払いされ、しかも銃を構えた兵士に囲まれての談判であった。

 7月9日今度は同じく組与力の香山栄左衛門が浦賀奉行名代として行くも同様であった。それ以後何回も足を運び、やっとペリーを上陸させ大統領の親書を受取ることに話をまとめた、ペリーは香山栄左衛門を評価した。
 一方同行している中島三郎助はサスケハナの船内を片っ端から調べ、且つ質問攻めを行ったので随分嫌われたようである、しかしこの調査は即貴重な資料となり幕府の洋船建造に役立ったのである。実はこの二人三郎助と栄左衛門は妻同士が姉妹という義兄弟だった。
 7月10日沿岸を警備している各藩大名は2番手、3番手と増員強化した。住民は避難疎開を始めたので男子15~60才は転出を差し止めされた。廻船はすべて航行禁止。浜業も差止めとなったので江戸一帯は鮮魚が食べられなくなった。
 7月14日ペリーは久里浜へ上陸して一里半ほどある浦賀まで歩き応接所で浦賀奉行と会見して大統領の親書を提出したが、当時12代将軍家慶は重病だったため幕府は返事を待ってくれるよう依頼した。

 7月17日ペリーは1年後に返事を聞くために再来すると言い残して退却した

2009年2月10日 (火)

ペリー来航と永力丸漂流人

 神戸の樽廻船永力丸が紀州沖で難破したが、太平洋上で運良くアメリカの商船に17名全員が救助された、そのままサンフランシスコ迄行き海軍に引渡された。
その後は日米交渉の人質に利用されることになり海軍の管理下におかれた。
・アメリカ大統領は徳川将軍あての親書に署名し、オーリックを遣日使節に指名した、オーリックは軍艦サスケハナ(蒸気船)それに帆船のプリマス、サラトガを率いて極東へ出発、しかしその後彼は解任されて、新しくペリーが任命された。
・ペリーは軍艦ミシシッピー(蒸気船)に乗ってサスケハナと合流すべくワシントンを発った、しかし蒸気船は石炭の補給が何カ所かで必要なため大西洋、インド洋を経由しての航路故か到着が大幅に遅れたのである。
・永力丸の17名はサスケハナの下へ人質として送られることになりセントメリーでサンフランシスコを出発したが途中で船頭の万蔵が病死したのでハワイに立ち寄り埋葬した。
香港に着くと16名はサスケハナへ移された。暫くして彦太郎、治作、亀蔵の3名がアメリカへ連行された。
・残った13名は上海で音吉という元漂流人に出会った、彼はイギリス船に送られて帰国したが本土へ上陸することが出来ず諦めて上海に永住していた、そして彼等に献身的な援助をしたのである。
・サスケハナの船長は音吉の交渉に負けて日本人12名を釈放した、しかし漂流人を助けた証拠として仙太郎だけは留めさせていた。
・それから26日後にペリーがやっと到着したが、日本人が1人しか居ないので激怒した。連戻しに来た船長を音吉は怒鳴り付け12名を匿ったのである。
・これから2ケ月後にペリー率いるサスケハナ、ミシシッピー、プリマス、サラトガの4艘が浦賀沖に表れ日本人に黒船の威容をみせつけたのである。
 4艘とも船体を黒く塗っているので黒船には違いないが蒸気船は2艘である。例の狂歌は明治以降の作とされており、何れにしても現状とは合っていない

2009年2月 3日 (火)

ペリー提督日本へ上陸

 今から156年前の嘉永6(1853)年7月14日、アメリカのペリー提督が大統領の親書を持ち軍艦四隻を率いて遙々と浦賀沖にやって来た、そしてついに久里浜へ上陸した。
 浦賀奉行の役人、警備の各藩武士、一般大衆など5000人余が海岸から丘にかけて密集し疑視していた。
 ゼーリン少佐が率いる陸戦隊100人、海軍軍楽隊2組、海兵隊200人が行進し、次にペリーと随行、最後に護衛隊、鼓笛隊が続き幕府の応接所へ向かって行進した。曲はブレジデント・マーチにのせたコロンビア万歳(hail columbia)。帰りは鼓笛隊がヤンキー・ドードル(yankee doodle)を演奏した。
   

 ♪ヤンキードードル、小馬にのって町へ行く、
  帽子に羽根さし、伊達男。
  今も続けて、ヤンキーはダンデイだ、
  その曲、足踏み気をつけて、
  ララララララ、乙女と一緒で、手頃なの ♪ 

 このメロディーを日本人が歌ったのが、この歌 
 ♪アルプス一万尺 小槍の上で 
  アルペン踊りを踊りましょう ヘイラララ… 
  槍や穂高はかくれて見えぬ 
  見えぬあたりが槍穂高 ヘイラララ… ♪ 

以後折々にアメリカの彼等が演奏したのは、おおスザンナ、草競馬、兄弟ガム、スワニー・リバー、金髪のジェニー等フォスターの曲が多かったそうである

2009年1月23日 (金)

播電鉄道100周年

4  今から丁度100年前、明治42(1909)年1月、茶色の車体で窓をクリーム色に縁取ったハイカラな40人乗りのチンチン電車が網干の北の片田舎にデビューした。
網干駅~龍野間6.5㎞を10銭で走った。
 兵庫県下では阪神電車に次いで2番目、全国では22番目の電車しかもレールは広軌だったそうである。
 以後拡張されて網干港~觜崎まで延長されたが、経営は至って苦しく何度も社名が変った。車両の修理すら出来かねて車中で日傘、雨傘が要ったとか。
 昭和9(1934)年12月ついに実働25年で生涯を閉じた。
 現在ほんの僅かではあるが、軌道跡が残っている。写真の場所はJR 網干駅の北約300メートルの川沿いで、先だって河川改修が行われた際にも地域の方の努力によって保存されているものである

 

2008年12月 9日 (火)

人間 秦河勝

 能楽の祖として世阿弥に書かれた神ではなく、実在の人間秦河勝に迫ってみよう。

 古事記や日本書紀に書かれているように、大陸からの渡来人にまず間違いない。仲哀天皇の御代に秦の始皇帝13世孫孝武王の子孫と名乗る「功徳王」が、そして応神天皇御代に同じく「融通王」が大勢で渡来して帰化している。仁徳天皇は秦族を各地に分散させて蚕を飼育させ絹の生産を奨励した。
 彼らは山城国で葛野(現在の太秦辺)、深草等周辺部に拠点をなした。弘仁5年の新撰姓名禄によると渡来人の3割強は秦氏族であった、河勝は太秦に蜂岡寺(現広隆寺)を建立したが他には秦都理(ハタノトリ)が松尾大社を、弟の秦伊呂具(ハタノイロコ)が稲荷大社を祀っている。

 19代欽明天皇は秦大津父(ハタノオオツチ)を大蔵官僚に用いている。聖徳太子は秦河勝の財力を利用したようである、河勝は「葛野の秦の造河勝(カドノノハタノミヤッコカワカツ)」と呼ばれていた。

 日本書紀では河勝について推古天皇11年の峰岡寺建立と皇極天皇3年の関東不尽河での蜜柑の芋虫事件から大生部多(オホブベノオホ)退治が記載されている。

 推古天皇29年に聖徳太子が亡くなって以後は都を離れ太秦に籠っていたのかもしれない

2008年11月24日 (月)

藤原惺窩のこと

 藤原惺窩「ふじわらせいか」(1561~1619)は近代日本朱子学派の開祖といわれている儒学者である。

 播磨国細川荘(三木市細川町)の荘園を領した冷泉為純の三男として生まれた、幼少より神童と呼ばれた秀才だったと言われている。8歳の時に唯一人で同州龍野まで歩いて行き揖西郡の景雲寺へ入門して名を宗舜とした。

 18歳の時、父為純と兄等が三木城主別所長治に滅ぼされたので姫路の書写山に陣地を置いていた羽柴秀吉に会いに行き、仇討と家名再興を願い出た。秀吉に「時期到来を待つように」とさとされた宗舜は、京都に上り叔父泉和尚のいる相国寺を訪れ、ここで禅の修行と儒学を志すようになる。

 文禄2年徳川家康が大禄で迎えようとしたが固持した、しかし再三の招きにより惺窩は家康や家臣に進講した。慶長10年に家康が京都二条城へ惺窩を招いた時も仕官の意志がないため代わりに高弟の林羅山を推薦した。林羅山は家康に重く用いられ、徳川三百年の官学の祖といわれるようになった。

 藤原惺窩が出生から8歳までの故郷三木市、そして8才から18才まで過した龍野市、この生まれ育った播磨時代の記録が乏しいのは残念である

2008年11月 7日 (金)

源氏物語が千歳になった

7  12

 紫式部の書いた源氏物語が寛弘5(1008)年11月世に出て、一条天皇に献上された。
世界最古の長編小説であるとか、源氏物語絵巻がどうとか、今年は1000年紀に当たるとNHKは連日5つのチャンネルを駆使して騒いでいる。後家さんが暇にまかせて、くだくだと書き続けて長い長いお話になっただけのこと。長さでは「大菩薩峠」や「戦争と平和」とかもありポルノ的には「金瓶梅」もある。
最初は谷崎潤一郎訳を読んだが中断、それからも色々な作家の訳を読みかけてはヤメ、最近与謝野晶子を読んでみたか、しっくりこない。当然オリジナルは無い。実に1000年の歳月は大きいことに気が付いた、現在の日本のモラル・常識と1千年前の平安貴族との格差は想像が及ばない程差が有り、経済的なことはとも角としても男女の貞操観念については理解しがたい域ではなかろうか、当時の世相や人と人との交わりを理解していないと源氏物語は読みこなせないことが分かった。

 例えば「方違え」という言葉があるが、これは陰陽の風習で旅に出るのに目的地の方向が悪いといって、旅立ちの一日目は「方違え所」を定めてそこへ宿泊して、行く先の方角が修正されたことにして出発する。この方違え所に当てられた家は饗応をするのがしきたりだという、これが理解に苦しむ、何故かそれは食事とかのもてなしだけでなく、夜の相手も勤めねばならない。(方違へ所の条件は当然中級の貴族級で相手をする美女が居ること等で決めた)、紫式部もこの方違へ所を経験して夜の契りの後を歌に詠んでいる、『おぼつかな それかあらぬかあけぐれの そらおぼれする朝顔の花』また清少納言は枕草子に「すさまじき物―ひるほゆる犬… …かたがへ(方違)にゆきたるに あるじ(饗応)せぬ所」と書いている、もてなしが悪いとスサマジイとまでいうのか、清も偉そうにしていてもこの程度か。

 さて源氏物語を天皇へ献上するには、紙の質や表装も大変であり費用も莫大なのを藤原道長に援助を受けた、それかあらぬか今もって紫式部は藤原道長の妾だったという説は信憑性大なりといえる

2008年10月 9日 (木)

玉虫左太夫の最後

 遣米使節木村豊前守の付人として渡米した玉虫左太夫は、主君の3度の食事をはじめ身の回りの世話と荷物の管理で日々忙しく、しかも身分が低いため船室は満足なものが与えられず夜具ごと大浪をかぶることも度々有ったと言う、それでも毎日欠かさず日記を書き続けた。

 帰国後改めて仙台藩士に取り立てられた。
慶応4(1868)年戊辰の年、3月下旬に左太夫は仙台藩主の使節として若生文十郎と共に会津鶴ヶ城に赴き、松平容保侯と会見して朝廷への帰順を勧めた、しかし会津の世論は朝廷に対しては忠誠を誓うが薩長に対しての屈服にはあくまで反対であると知らされた。
 この時、容保は左太夫が酒好きであることを聞いて大盃を勧めた、左太夫は笑ってこれを受けず「外臣大盃(大敗)を嫌う。請う、小盞(勝算)を賜え」と言ったので、侯は大いに笑い、共に歓をつくし、左太夫に長光の刀ならびに定紋付木杯を賜ったという。

 しかしこの行動が反対派によってでっち上げられ左太夫の悲劇、死への端緒となった。この年8月23日飯盛山で白虎隊の有能な若者19名が散った。

 11月14日左太夫は捕縛され入牢、翌年牢内で自刃して47才の生涯を閉じた。

 小さい頃から神童といわれた秀才は、藩士荒井家に乞われて婿に入った、一女をもうけたが妻が病死、後添えを勧められた時に左太夫は、愛娘の養育と荒井家の跡は妻の妹が継ぐようにと頼んで仙台から姿を消した、ここで後妻を娶り男子が出生したら荒井家の血縁が無くなることになる、彼は別の道を選んだのである。

 脱藩して江戸へ出たが本名は名乗れず、苦しい日々を耐えた、いろんな人との出会いがあり、引き立ても受けた、
安政4(1857)年には箱館奉行堀織部正に従って北海道・樺太へ巡検に行き、日録「入北記」9冊を書いている。そして遣米使節への推薦も受けた。まさに波乱万丈の人生であった

2008年10月 1日 (水)

シーボルト Ⅱ地図のこと

「天高く馬肥ゆる秋」この言葉はゲンダイではスモッグとダイエットの時代になり色あせたけれど、やはり一年のうちでは仲秋~晩秋(旧暦の89月のこと)は空が冴えて月がトッテモキレイ、だから月の小さなクレーターまで見えてしまう。
 そこで「クレーターアサダ」が浮かぶ(実際にはまず見えないけれど)。
昭和
51年に月の表面のクレーターに初めて名付けられた日本名(裏面には既に幾つか日本名があった)でアサダとは麻田剛立のことである。
弟子に高橋至時が居り高橋の弟子に伊能忠敬、伊能に測量を学んだのが間宮林蔵である。また高橋至時の息子に高橋景保と渋川景佑がいる。
伊能忠敬が「大日本沿海輿地日本地図の完成前に死亡したので高橋景保が引継いで仕上げた。
洋書が欲しくて交換条件にその地図の写しをシーボルトに渡したことを間宮林蔵に知られ、密告されて牢死した。
 渋川景佑はそれまでの暦に改良を加え天保暦を完成させた、今もって使われている旧暦である。
 シーボルトはドイツの内情探索官、間宮林蔵は公儀隠密、世界のためにと天文的な考えだった景保は弟子達や関係者をも巻き添えにして、悲惨な最後をとげた

2008年9月25日 (木)

シーボルト Ⅰ西播磨路

 慶長141609)年徳川家康の朱印状によりオランダは長崎に「オランダ東印度会社」の日本支店としてオランダ商館を置いた、商館長は毎年江戸へ参府して、幕府の通商許可に対して万物を献上していた、寛永101633)年から嘉永31850)年まで218年間に166回往っており、初めは毎年だったがのちに5年に1回となった。
 文政6(
1823)年にオランダ商館付医師としてドイツ人のシーボルト27才が来日してきた。
文政9年(
1826162回目の参府にシーボルトが同行している、先例によりオランダ側は公使となる商館長と書記と医師のわずかに3人、そして日本側からは、付添大通詞末永甚左衛門をはじめ小通詞、オランダ人のための小使と賄方、日本人のため31人の小使、料理人達のほかに高良斎が調査の補助として加えられた。

 正月9日出島を出立、使節の一行は長崎から小倉までは陸路、船で瀬戸内海に入って1月
29日午後2時頃播州室津に上陸した、2月1日室津からは陸路を取った、裏山を越えて田んぼ道を行くと長い間聞いていない雲雀の声を聞き、故郷での若い頃を思い浮かべたという、姫路の町で先触れが「下に、下に」という呼び声に対し、市民が身を屈めたので彼は秩序が行き届いていると賞賛した。
姫路では天産物を物色させたが大した物はなかった、しかし当地は書籍の生産・流通の拠点で灰屋という書肆が知られていたので名所めぐり・紀行・地図の類を数多く集めさせて大満足だった。

 2月2日姫路を出立、曽根で昼食、午後曾根の松、石の宝殿、高砂と回った、高砂神社に参拝して御初穂金子百疋を神納して記帳もしている、
Dr.Von Sieboldとサインしている、ドイツ語でジーボルトだが本人はオランダのスタッフだからか、自らシーボルトと名乗っていた。春の日も落ちてから駕籠で加古川の宿に向かった。

 帰路は5
15日に兵庫から船に乗って淡路島や家島を観察しながら下って行った。

2008年9月14日 (日)

遣米使節団任務を終える

 新見豊前守以下の使節団と護衛艦としての咸臨丸はともに目的を果たして無事に帰国した。
 
咸臨丸はサンフランシスコ迄とに角嵐の連続で船体は破船寸前の状態にまで損傷したが、アメリカが全額負担で修理をして呉れた、帰りはハワイへも寄り平穏な航海だったという。しかし讃岐塩飽島の水夫富蔵と源之助そして火炊の峯吉の三人が病死したのでシスコの丘に埋葬、また重病者5名、軽症者10名を異国の地に残してきた、96名で出発したが使節団の1名を加えた79名が帰ってきた。
 
使節団は各地で大変な歓迎を受けながら、無様な態度もあって顰蹙をかい新聞にも取上げられたが、賑やかに世界一周を果たした、ただ賄人の半次郎がシスコの酒屋で英人と喧嘩をして、体調も崩したので咸臨丸で先に帰した、したがって77名で出発したが76名。それと香港で摂州灘の樽廻船永力丸の漂流民で芸州因島生まれの亀蔵が帰国を懇願して来たので彼を加えた77名が無事に帰国した。一行は上陸して始めて桜田門外の変を知り愕然としたのである

2008年9月12日 (金)

遣米使節団と買物

万延元年(1860)幕府の使節としてアメリカへ渡り、帰りは大西洋を回った一行は、各地で買物を楽しんだ。
・玉蟲左太夫はハワイで靴を買った、価格は1ドル50セントで1分銀4個を支払った高いけれど雨の時に困るからとやむ無く買った、酒店でビリヤードとボーリングを見たとか、妓楼では手を引っ張られたが逃げて帰った、
・サンフランシスコの物価一例 
米一升1ドル、 酒100cc50セント、 鶏卵12個1ドル、 時計3~700ドル、 遊女1人5~20ドル、
・ワシントンでは写真が25セント~5ドル、
またニューヨークでは米五升50セント、 シャンパン1瓶1.5ドル、妓楼1~5ドルとか、しかしここでは値段に差があり日本人向き価格が在ったのかも知れないと言っている。
 さて肝心のレートであるが、この時は1ドル=0.75両 したがって小判1両=1ドル32セント、1分銀=33セントであった。この不合理を金銀舗へ出向き1両=3.41ドルに是正したのである。(9月6日付小欄)即他国に対しても修正がなされた。
・帰路に南アフリカの西、カーボベルデ(当時はポルトガルの植民地)へ石炭の補充で寄港したがその時陸上よりパイナップル売りがやって来て、何と日本語を大分知っている「分からない」「スケベイ」なんて、一行はさぞ吃驚し喜んだことだろう、彼らは以前に日本へ派遣された事がある人だったのである。

2008年9月 6日 (土)

遣米使節もう一つの成果

 ワシントンで批准書の交換を済ました一行は、4月25日フィラデルフィアで「金銀工作場」を見学、翌26日「金銀舗」(造幣局)に行き貨幣の交換比率の見直し交渉に挑んだ、
 先ず小判とアメリカの金貨の分析実験を行い、小栗忠順は「金の含有量については、これまでの実験でわかった。しかし小判にも、アメリカの金貨にも、金以外の金属が含有されている。これらの含有量も分析しなければ、正しい交換比率の決定はできない。」「貴国のハリスは江戸で間違った交換比率を要求し、日本政府がそれを受け入れたために、日本経済は大損害をうけている。今回の調査に基づき是非とも正常の比率にしたい。」32歳の小栗は毅然とした態度で堂々と論議に望んだ。
 アメリカ側は慌てた。しかし紳士的な態度で適正なレートが成立した。メディアも小栗の正々堂々たる態度を賞賛して報じた

2008年8月31日 (日)

遣米使節団が行く

 万延元年にアメリカへ行ったメンバーは、正使新見豊前守・副使村垣淡路守・監察小栗豊後守の3人でそれぞれ9人の従者を連れて10万石大名の格式、ほかに諸役人と家来、医師、通訳、賄人等総勢77名で出かけた。これにはアメリカ側は仰天した。往復ともアメリカ軍艦で送迎して貰った。
 
閏3月28日、使節は武家の正装の狩衣に萌黄色の烏帽子をかぶり、立派な飾り太刀を付けた。家来も身分相当の布衣や素袍、麻裃で正装した。儀仗兵や騎兵隊、楽隊と共に条約批准書を入れた飾り箱が進み、役人と共に夫々アメリカ人の案内をつけた3使節の馬車が続いた。行列はホテルからホワイトハウスに向かったが、沿道には相変わらずものすごい見物の人垣ができた。日本人代表団は誇り高々に進んだのである。
 
[副使村垣淡路守の感想「自分達は狩衣で正装しており、見慣れぬ装束だから人々は不思議そうに見つめていたが、こんな夷狄の国に来て皇国の光を輝かせると思うと、身の程も忘れ誇り顔で行進するのもおかしかった」。]
しかし身分の低かった玉蟲佐太夫は別の見方をしていた

2008年8月28日 (木)

万延元年庚申

1月7日 岩吉がイギリス公使館である高輪東禅寺前で暗殺される。
     岩吉は元永力丸の漂流民で香港で仲間をはずれ、

     のちイギリスの通訳をしていた、紀州有田の生まれ。
1月12日 咸臨丸アメリカへ出発
1月22日 遣米使節団出発、
3月3日 桜田門外で井伊掃部頭が暗殺される
3月10日 仙太郎(永力丸漂流民-芸州生口島生れ)が帰国
3月18日 安政から万延に改元
3月28日 遣米使節団はワシントンで大統領ブキャナンに謁見し、
    
日米修好通商条約批准書を渡す
4月   公武合体のため幕府から朝廷へ和宮を
    
徳川第14代将軍家茂の妻として正式に要請
5月5日 咸臨丸帰国
8月15日 和宮が降嫁承諾-10月勅許が下りる
8月15日 徳川斉昭(水戸の隠居、慶喜の父)死去
9月17日 香港に寄港した遣米使節団が亀蔵(永力丸漂流民-芸州因島生れ)
    
出会い、連れて帰る
9月27日 遣米使節団が帰国
12月5日 アメリカの通訳ヒュースケンが暗殺される
※永力丸漂流民のうち播州加古郡生れの浅五郎と清太郎は、播州姫路藩で士分に取立てられ、藩船速鳥丸に続き神護丸の建造に携わっていた

2008年8月24日 (日)

咸臨丸渡米時の実体

1856年オランダ製 木造3本マスト 300トン 時速10㎞ 全長49.5m  幅7.3m 

 この船が1860年に横浜からサンフランシスコを往復した、目的は幕府の遣米使節団のお供であった。乗組員96名 ほかにアメリカ人11名 行く時は嵐の連続だったので日本人は殆んどが船酔いでダウン、アメリカ人が必死で操縦して何とかたどり着いた

1. 勝海舟は艦長ではなかった 

特に役職は無かったが勝手に威張っていただけ、途中で無能がバレて、船酔いと称して隠れてしまった、シスコへ着くと途端に勝家の旗を振つて威張りだしたので、見かねた木村摂津守が注意するや、皆がその旗を燃やしてしまった、そして拍手

2. ジョン万次郎の活躍

元気だったのは万次郎と他2人だけだったらしい、アメリカ人に100パーセント世話になり、随分コンセンサスに努力した、しかしその努力にすら反発し切り捨てろという者が居たそうだ、武士の階級制度のなせるわざ、従って漂流人あがりの扱いは帰国後も続いた

3. サンフランシスコでの歓迎

・異様な風態の行列だ、これを見ずに居られよか、ソレ行けー

 頭は奇怪なチョンマゲ、腰に刀を2本も差している、靴は草で編んだサンダル
 そして刀の無い者は着物の裾をからげ褌が見えている

・禁欲の続いたオサムライは酒、女、トバク三拍子の上々鴨、
 カモがネギならぬ小判を背負って来たと満面の笑みでウエルカム、
 キツイ酒で酔わせれば後は濡れ手に小判とサービス満点

・勝海舟や福沢諭吉の写した写真にどれ位払ったか分かれば面白いんだけれど

.帰国後の勝海舟や福沢諭吉のエエカッコ発言のみが取上げられ、
 遣米使節団の活躍や苦労までもが伏せられてしまっていた

2008年8月23日 (土)

咸臨丸と赤松則良

 1860(安政7-万延元)年、幕府の遣米使節団を護衛名目で軍艦咸臨丸が先導したが、途中嵐につぐ嵐で殆どの者が船酔いと熱病でダウン、元気だったのは小野友五郎と通訳のジョン万次郎くらいとか、従って操舵や他の作業も同乗していたアメリカ人のブルック大尉以下がやってくれた、散々威張っていた日本人は船底で青くなって動かなかった。(水夫等3名死亡)
 
また航海中は勿論サンフランシスコに着いて船の修理の手配交渉等もブルック大尉に任せていた。しかし帰国後、福沢諭吉までが「アメリカの手はまったく借りなかった」と言っているが、これは重大なウソであったことや、隠されていた事実が最近明らかにされている。
 
さて、船がシスコへ入港した時に、陸から祝砲があったらどうするか議論になったところ、勝海舟は応砲を撃ってやりそこなうより撃たぬ方がよいと言った、しかし佐々倉桐太郎が「いや撃てないことはない、おれが撃ってやる」と言うと勝は「ばか言え、貴様達に出来たら俺の首をやる」と言った。結果は佐々倉と赤松大三郎により大成功を納めた。佐々倉桐太郎は浦賀奉行組与力、赤松大三郎は見習士官で最年少の18歳。
 
赤松大三郎の父は下田奉行組与力で吉沢雄之進である、商家の生まれからの出世を追ってみよう。
赤松家は播磨の豪族赤松則村の流れとか、大三郎の祖父赤松泰助の代まで播州網干の豪商で龍野藩御用達で名字帯刀を許されていた。しかし祖父の代で倒産している
1806(文化3)年 父八太郎出生 その後祖母せつは離婚
  
祖母せつ、八太郎を連れて印南郡の玉田家へ再婚す(現加古川市志方町)
        八太郎は玉田安之助となる
1826(文政9)年 安之助は豊後日田郡代の手代となり玉田渕蔵と名乗った
         
江戸へ下り、吉沢やすの婿養子となり吉沢雄之進となる
1835(天保6)年 雄之進は幕府御徒士(御家人)となる
1837(天保8)年 吉沢やす死亡
1839(天保10)年 雄之進は後妻ますと結婚
1841(天保12)年 次男大三郎出生
1842(天保13)年 雄之進、長崎奉行組与力となる
1847(弘化4)年 長崎よりの帰路、故郷網干にて大三郎は祖父の赤松を嗣ぎ、
         赤
松大三郎則良と名乗る
1854(嘉永7)年 父雄之進は下田奉行組与力となる
1857(安政4)年 大三郎、蕃書調所に勤める
1859(安政6)年 父雄之進死亡
1860(安政7)年1月 咸臨丸にて渡米

2008年8月13日 (水)

大東亜戦争無条件降伏へ

『海ゆかば』 ←<万葉集4094>←<続日本紀巻17>
「海行かば 水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば草生(む)す屍 大君の辺(べ)にこそ死なめ 返りみはせじ」
『8月10日 国体護持を条件に連合国側のポツダム宣言の受け入れを御前会議が決めた』
『8月10日東条元首相 天皇への奉答』
「…敵側の提示せる条件をみるに、恰も手足を先ずもぎ、しかも命を敵側の料理に委する如き結果となり。…皇位確保、国体護持に就ては当然にして、之れをしも否定する敵側の態度なりとせば、一億一人となるを敢然戦ふべきは当然なり。…第一線皇軍将兵は堅く戦勝を信じ、現に唯今でも勇戦敢闘、一死を顧みず死に就て居り。既に幾多の犠牲者は喜で大義に殉じつつ在り。…廟堂の処置、之を誤ることに依り、之れ等の犠牲を犬死に終らしめる如く切望に不堪ず。…」
『8月15日正午玉音放送』
「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ…朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ開放ニ協力セル諸連邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク、且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ、惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス、爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル、然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス、…」    裕仁

2008年8月 9日 (土)

井伊の赤鬼桜田に散る

 井伊掃部頭直弼。徳川四天王の一人井伊直政から続く近江彦根35万石の藩主。大老に就けるのは四家のみで他に酒井家・堀田家・土井家である。 

 安政5年4月大老に就任、6月に日米修好通商条約を勅旨を待たずに調印、将軍継嗣を徳川慶福に決定、そして自分に反対した者を全て処罰の対象とした。

{安政の大獄の処刑者は100名以上とされるが主な人物は、

*死刑・獄死 吉田松陰以下9名 *隠居・謹慎 一橋慶喜以下12名 *永蟄居 徳川斉昭、岩瀬忠震、永井尚志 *遠島6名 *追放3名 *押込 津崎矩子(村岡局)以下2名 *公卿の処分 近衛忠煕以下10名 *逮捕前死亡 島津斉彬月照以下4}

その結果安政733日水戸浪士らの襲撃を受け桜田門外で横死した。

 「雪の日や氷の刃井伊の首 水もたまらず落ちし桜田」

 「桜田に胴と首との雪血がい 井伊馬鹿ものと人はいふなり」

 「三月は雛の祭りか血祭りか あけに染めたる桜田の雪」

 「いい鴨(井伊掃部)を網で捕らずに駕籠で捕り」

 大坂はやり歌  

 「一ツトエイ 人のいやがる交易を済した掃部ハ首がなし コノ心ヨサ」

   ※交易とは日米通商条約の無勅許調印をさす

2008年7月16日 (水)

島津斉彬 死して名を残す

10代島津藩主斉興の長男として江戸で生まれる。

曽祖父の第8代藩主重豪の影響を受け、洋学に興味を持つ。

老中阿部正弘にも及ぶお家騒動の末に斉彬は第11代藩主に就いた、時に43歳。

 将軍継嗣で激しく対立していた井伊直弼が大老の地位を利用した強権発動により、第14代将軍は徳川家茂に決定、しかも反対派を弾圧する「安政の大獄」を開始。

 これに対し斉彬らは藩兵5000名を率いて抗議行動を計画、しかし78日鹿児島城下で出兵の為の訓練中に倒れ、716日死亡享年50歳。

 少年の頃から薫陶を受けた西郷隆盛をはじめ斉彬の側近達は新藩主に随分酷い目にあわされた、しかし斉彬の精神は彼らに色濃く反映され、やがて倒幕 維新へと転換して行った。

2008年7月10日 (木)

姫路の藍染

Qw 『播磨なる飾磨に染むるあながちに 人をこひしとおもふころかな』

   詞花集 曾禰好忠

『書写の書写の播磨の書写の 書写坂元の紺屋の娘がよい娘 やれたいたもなのもやいの』若衆歌舞伎で演じられた「業平躍歌」の一節である、書写山南山麓の坂元は円教寺の門前町として栄えていた、種々の生産活動が営まれ、その中の一つに藍染屋が有り、製品は円教寺参詣人によって全国各地にもたらされたのであろう。

2008年7月 4日 (金)

B29の空襲

 63年前の今頃は、毎晩日本の何処かがアメリカの爆撃機B29によって焼夷弾を雨あられの様に落とされた。大都市や軍需工場は既に爆撃で壊滅、7月に入ると中小都市がターゲットと化した、わが国は防衛力なし僅かに民間工場の高射砲が時々打ち上げるが、精々5千メートルまで、B29は高度1万メートルを悠々と飛んで行く。
 町の軍需工場は中学生・女学生(今の中三から)の授業を無くして寄宿舎に入れ、勿論無賃金で働かせた。当時は大人も子供もマインドコントロールされており、竹槍や薙刀でB29を遣っ付けるのだと空元気、一番クールだったのが兵隊さんで、空襲になると子供も学生も差し置き逃げ散ったのでした。

2008年6月30日 (月)

井伊直弼が大老に

1  今年も早半年が過ぎました、NHKドラマの篤姫も折返し点、後半に向かいますがさて安政5年とは。
 正月21日老中首座堀田正睦が、異国嫌いの孝明天皇説得のため京へ出立、この時幕府は賄賂として15万両持参したが、関白職としては受取れない、ただし九条へなら受取ろう、だって。
時の関白九条尚忠のことで、鼻薬は効いたが、しかし井伊直弼の画策も有って結局不成功に終わった。
 4月23日井伊直弼が大老に就任−(堀田の留守中に決めるとは)
 6月23日堀田正睦は老中御役御免
 7月6日将軍家定急死
 7月16日島津斉彬急死(毒殺説あり)
 10月25日慶福は13歳で第14代将軍になり、徳川家茂となる。
さてドラマは選手交代、北大路海舟や如何に、実像の海舟は内弁慶でエエカッコしいだったとか。

2008年6月19日 (木)

プチャーチン提督と北方領土

 嘉永6年(1853)7月、4隻の艦隊を率いて来日するもアメリカのペリーに先を越され、江戸を避け長崎へ入港、12月長崎へ再来「国境策定と国交を求める」しかし交渉はまとまらず。その頃英・仏はロシヤに宣戦布告従ってプチャーチンも派手に動けなくなり、北方領土の視察と言って北海道へ向かった、9月に大阪湾に現れ神戸辺迄巡回す、その後下田で日露協議開始、11月4日東海地震のためディアナ号は大破、乗員500名は住民の献身的協力により全員救助された、しかし船は修理不能で破棄、
 12月21日「日露和親条約」締結、国境については「千島列島のウルップ島以北を露領、エトロフ島以南を日本領とし、樺太は国境を設けず日露共有の地と定めた。」日本側全権は大目付格筒井正憲、勘定奉行川路聖謨{新暦では安政2年2月7日となり、この日を北方領土の日とした}
 安政2年(1855)3月伊豆の戸田(へだ)村にてロシヤ船を約100日で建造、日本の協力に感激したプチャーチンは船名を(ヘダ号)と名付け3月23日帰国の途についた。8月に再来日して日露修好通商条約を締結している。
 明治16年 80歳で死去、明治20年娘オリガが遺言により謝礼金百ループを持ってはるばる戸田村を訪れて来ました。

2008年6月18日 (水)

間宮林蔵と近藤重蔵

 NHK「その時歴史が動いた」で間宮林蔵の北方探検を取り上げていましたが、幕府は林蔵の外にもう一人の「蔵」即ち近藤重蔵を千島へ向かわせました。重蔵達は根室までは経験済みでしたが、択捉島へ渡るのは大変困難を伴うので、厚岸で天候待ちをしている所へ高田屋嘉兵衛が偶然にも入港してきました、それから嘉兵衛の協力を得て、択捉島へ上陸、漁場を開き、全島に郷村の制度を制定して一旦引上げ。翌年又行って「大日本恵土呂府」と書いた木柱を立てたのです。
 それから約50年後長崎で「日露国境策定交渉」が持たれ、日本側はロシヤの勝手な言い分を全面拒絶したが、重蔵らの業績があったからこそでしょう。
この時の会談でロシヤのブチャーチン提督と川路聖謨は双方相譲らず、銃を持った兵士に囲まれ、片や大刀を左手に持っての掛合いだったとか、私は見ていませんからなんとも。
 しかし、このブチャーチンは豪傑でありそして物分りのよい紳士だつたそうです。

2008年6月16日 (月)

家定とハリスの会談 Ⅲ

 江戸城大広間ではアメリカ使節ハリスと会見が行われたが、その12日前10月9日にアメリカワシントンでは大統領「ブキャナン」に会見した日本人がいた、名をジョセフ・ヒコ、播州加古郡生まれの彦太郎で彼は摂州灘の樽廻船「永力丸」の船員見習だった時、難破漂流したがアメリカ船に救助され、途中で仲間と別れアメリカへ連行された男である。
 嘉永6年6月3日アメリカペリー艦隊が浦賀に来航、6月22日12代将軍家斉死去、その後11月23日家定が13代将軍に就任。翌嘉永7年1月16日ペリーは待ち兼ねたとばかりに江戸へ、そして3月3日半強制的に「日米和親条約」が締結、徳川家光以来200年以上続いてきた「鎖国」は解かれた。
 実はこのペリーの通詞の一人に芸州生口島出れの仙太郎が同行していた、彼も彦太郎と同じ永力丸の船員だったが、彦太郎とは別ルートでアメリカへ連行されていた。日本側の役人と何回か会見したが結局6月2日ペリーと共に日本を去った。
 家定はペリーでショック、ハリスでもショックを受け、しかも就任前から一橋慶喜の方がとか、次は慶喜をとか言われ、いやな思いをしていただろう、そんな中最も頼りにしていた阿部正弘が早世してしまった。家定の体調はますます悪化して行く。

2008年6月10日 (火)

家定とハリスの会談 Ⅱ

 阿部正弘亡き後は堀田正睦が筆頭老中です、使節ハリスの付添は下田奉行で進められました。
 将軍出御−御簾が巻上げられる、ハリスは大広間下段二畳目へ進み出てアメリカ大統領の口上を述べる、将軍が上意を申し述べられる。
 使節よりの献上物  1.鳥獣本2冊  2.酒一壷 
 使節へは 時服15(・白羽二重2 ・紅白浅黄散8 ・紅沙綾2 ・緞子熨斗目2 ・白綸子1)、通弁官へは 紅白巻物5 が贈られた。
 続いて柳の間で会食が行われ、無事に終了しました。関係者の皆さんヘトヘトに疲れたことでしょう。

2008年6月 2日 (月)

家定とハリスの会談 Ⅰ

安政4年10月21日江戸城大広間において、アメリカ使節のハリスが将軍家定に謁見しました。ハリスは椅子に掛けるので、将軍は目線が少し上になるまで厚手の畳を積み上げて座られたらしく、出難い声を振り絞り足をばたばたさせながらも比較的ハッキリと挨拶されたとか。
筆頭老中阿部正弘が亡くなった四ヶ月後のことでした。

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