義士の辞世の句
赤穂浪士は吉良邸へ討ち入り後、上野介の首を持って泉岳寺へ行き、主君淺野内匠頭の墓前に供えた。大事を成し遂げた一同は、その場で切腹しようとしたが幕府目附に身柄を拘束され、公儀の裁定が下るまで大名家へお預けとなった。
細川家では、家老大石内蔵助が含まれていたためかどうか、義士として扱い面倒を見た。松平家では、幕府に対する罪人を預かっている感覚で接した。同じ義士でありながら預かり家によって扱い方が大きく異なっていたから、待遇の良くない大名家に対して、江戸っ子は大ブーイングを浴びせた。松平家ではあわてゝ改善に努めたそうである。
元禄16年2月2日、細川越中守は子息の内記を伴い、内蔵助以下預かっている17人と宴会を催した、この時内蔵助等はピンと来たものがあった(断罪か切腹か)
翌2月3日には茶会師山崎宗称を呼んで、物真似或いは軽口等で一日遊びを催された。
晩方に17人立ちざまに、先ず原惣左衛門が何れにも向かい、
『兼ねてより 君と母とにしらせんと 人より急(せか)り 死出の山道』と申す
『しやわせや 死出の山路は 花盛り』 磯貝重郎左衛門
『雲晴れて 心に叶う 朝(あした)かな』 大石内蔵助
『山を裂く 刀も折れて 松の露』 近松勘六
その他全員が辞世の句を詠んだ
また細川家は、義士の切腹した後、泉岳寺へ送るについて、桶を乗り物に入れ、一挺に両側へ人を付け、白張りの高提灯二つ宛にて、留主居壱人・物頭壱人・大目附壱人・番頭壱人・給人弐人宛付け、騎馬六人が先導して行ったと記録されている。



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