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2009年12月

2009年12月25日 (金)

義士の辞世の句

 赤穂浪士は吉良邸へ討ち入り後、上野介の首を持って泉岳寺へ行き、主君淺野内匠頭の墓前に供えた。大事を成し遂げた一同は、その場で切腹しようとしたが幕府目附に身柄を拘束され、公儀の裁定が下るまで大名家へお預けとなった。

 細川家では、家老大石内蔵助が含まれていたためかどうか、義士として扱い面倒を見た。松平家では、幕府に対する罪人を預かっている感覚で接した。同じ義士でありながら預かり家によって扱い方が大きく異なっていたから、待遇の良くない大名家に対して、江戸っ子は大ブーイングを浴びせた。松平家ではあわてゝ改善に努めたそうである。
 
 元禄16年2月2日、細川越中守は子息の内記を伴い、内蔵助以下預かっている17人と宴会を催した、この時内蔵助等はピンと来たものがあった(断罪か切腹か)
翌2月3日には茶会師山崎宗称を呼んで、物真似或いは軽口等で一日遊びを催された。
晩方に17人立ちざまに、先ず原惣左衛門が何れにも向かい、
『兼ねてより 君と母とにしらせんと 人より急(せか)り 死出の山道』と申す
『しやわせや 死出の山路は 花盛り』 磯貝重郎左衛門
『雲晴れて 心に叶う 朝(あした)かな』 大石内蔵助
『山を裂く 刀も折れて 松の露』 近松勘六
その他全員が辞世の句を詠んだ

 また細川家は、義士の切腹した後、泉岳寺へ送るについて、桶を乗り物に入れ、一挺に両側へ人を付け、白張りの高提灯二つ宛にて、留主居壱人・物頭壱人・大目附壱人・番頭壱人・給人弐人宛付け、騎馬六人が先導して行ったと記録されている。

2009年12月19日 (土)

元禄16年2月4日-切腹-

 四大名家へ御預け中の赤穂浪士46名の処遇について、元禄16年2月4日正午に上意が申し渡された、全員即切腹の沙汰である。
 実は前日迄に、内々の通知がなされ、各大名家もそれに依り準備を行っていたようである。

松平隠岐守家の場合
当家には、大石主税、菅谷半之丞、堀部安兵衛、中村勘助、岡野市兵衛、貝賀弥左衛門、木村岡右衛門、千葉三郎兵衛、大高源五、不破数右衛門の十人が預けられていた
 八ツ(午後2時頃)過ぎに、御目付杉田五左衛門、御使番駒木根長三郎、御徒目付4名、御小人目付5名が御検使として、松平家に到着
 隠岐守殿と御対面にて、御料理が出されたが、御検使方は御断りなされた。
大書院へ五左衛門殿・長三郎殿御座され、御内席へ御預かりの面々十人の者召し寄せられ、御書付をもって、仰せ渡される、十人の者共、謹んでかしこみ奉ると御請け申し上げる。
 書付を懐中に成され、何れも支度致されるようにと仰せられる。
 いざ  一番に主税殿、死骸はそのまま蒲団に包み、桶に納め書付の通り順々に泉岳寺へ送り出された。
  
※ 介錯人は十人に対して六人で行われた。講談・浪曲等でお馴染みの荒川十大夫は堀部安兵衛の他に、不破数右衛門も行っている。

2009年12月18日 (金)

元禄16年2月4日-上意-

 元禄15年12月15日未明、赤穂浪士47名は吉良上野介屋敷へ討ち入り、見事本懐を遂げた、その後、浪士の身柄は4大名家へお預けとなった。
※寺坂吉右衛門が、内蔵助の指示により吉良邸から引き揚時姿を消したので、公儀取調は46名の行動として進められた。
 細川越中守家へ、大石内蔵助他16名
 松平隠岐守家へ、大石主税他9名
 毛利甲斐守家へ10名
 水野監物家へ9名

翌年2月4日、幕府は事件の判定を下した
 1、癸未2月4日、吉良左兵衛主を幕府評定所へ召し出し、仙石伯耆守・丹羽遠江守・長田喜右衛門、列座にて仰せ渡し、『淺野内匠家来46人押し込み、上野介を討ち取りし節の始末、段々似あわざる仕形、急度仰付られると共に、領地召し上げ、諏訪安芸守殿へ御預け』
此により左兵衛は安芸守の在所、信州諏訪へ配流となった、時に19才であった。

 1,癸未2月4日午刻(正午)に上使として、仙石伯耆守・長田喜右衛門が細川越中守家へ出向き、上意を申し渡す
『淺野内匠は勅使御馳走の御用仰付けらるの時、殿中を怪しまず、不届きの仕方につき、御仕置き仰せらるの処、主人の讐(かたき)と申立、内匠家来46人徒党を組み、武具持参、上野介を討ったる始終、公儀を恐れざる事、重々不届きの仕形、依って切腹仰付るものなり』

他の3家へもそれぞれ申し渡された

2009年12月13日 (日)

別院 観音寺

 JR姫新線、太市駅の北方約400メートルの山裾に、「十一面観音菩薩堂」がある
現在の地名は、兵庫県姫路市西脇字観音寺

717712

『神護景雲(767年)の頃は、金堂、講堂、法華堂、常光堂五大尊堂、鐘楼、一切経蔵、勧請神九所の社壇、五重三重の二基の塔、宝蔵一宇、僧房三百余、別院は大市の観音寺、根本寺…』
これは、峯相記の中で、鶏足寺のことを紹介している一文である。
 別院の観音寺とあるのが、ここの観音堂と比定して宜しかろう

2009年12月 5日 (土)

峯合寺

 播磨の地誌といわれている「峯相記」には、貞和4(1348)年10月18日の日付が入っている。
この頃は室町時代の初期に当り、貞和2年に赤松貞範が姫山に砦を築いた、当4年1月には楠正行が戦死、又2年後には赤松円心、吉田兼好等が亡くなっている。
 この峯相記には筆者名が記されていない、そして峯相山鶏足寺という大そう立派なお寺が背景となっている。
しかし、その場所が特定出来ない、室町時代の大寺院がいかに寂れたとはいえ跡形も無く消え失せるものだろうか。

 さて本文の中に以下のくだりが有る。
『…凡敏達天皇以後興廃度々に改ると云へども、年記等分明ならず、空也上人数年籠山、金泥の法花経を延長2(988)年12月2日に施入、性空上人、一夏籠山、法花経一部永延年中に施入、両聖の筆跡今に有之、云々…』

 そこで、空也上人が実際に峯相山鶏足寺へ来たのか、どうかというと。
 そもそも空也上人とは、天台宗空也派の祖と云われた人で、空也念仏、浄土教の先駆者である。
延喜3(903)年~天禄3(972)年 戒名は光勝
『20才の頃、尾張の国分寺で得度して名を「空也」と自ら名乗った、しかし国分寺には長く留らず、播磨国揖穂郡峯合寺に居を移され、そこで数年かけて一切経(全てのお経5千巻以上)を読解なされた。以後四国湯島をはじめ諸国遍歴されつゝ社会事業等にも力を注がれた。
京都を中心に貴賤を問わない口称念仏の布教を展開され、東山に六波羅密寺を建立された』
 又、元亨釋書(1322年)巻第14 釋光勝の項に
『沙弥時自称空也 居播州揖穂郡峯合寺看大蔵…』
このように記載されている

 峯合寺、或いは鶏足寺のモデルは存在していたと考えられる、が、書写山円教寺よりもスケールの大きな寺院だったのか、どうか。
筆者の筆には狸の毛が沢山入っていたに違いなかろう

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