万葉集から 高丘河内連の歌二首
高丘河内連(たかをかのこふちのむらじ)ってどんな人
ハイ 「播磨国風土記を書いた人です」
百済からの渡来人で楽浪河内(サザナミのコウチ)という人が播磨に住んで居た
和銅5(712)年7月播磨の大目に任命される
和銅6(713)年5月天明天皇の詔をもって地誌の編纂・献上が下命された
時の播磨守であった太石王は、若いが文才の有る河内に指示したものと思われる
霊亀元(715)年頃に編纂をおわり、朝廷へ差し出した
播磨守に石川君子が赴任して来たのもこの頃である
養老4(720)年9月~5年4月にかけて播磨按察使が入って来て調査を行った
養老5(721)年から河内は皇太子(のちの聖武天皇)の側近として仕えるようになった
神亀元(724)年 高丘連を賜姓された
天平勝宝6(754)年に大学頭に任じられている
さて万葉集には二首が掲載されている、これは天平15(743)年秋頃の作ではないかと云われている
『故郷は遠くもあらず一重山 越ゆるがからに思ひぞ吾がせし』-1038
「故郷は遠いわけでもない 一重の山を越えるだけのことなのに 私は恋しくてならなかったよ」
『我が背子と二人し居れば山高み 里には月は照らずともよし』-1039
「あなたと二人で居ますと どんなに山が高くて里に月が照らなくても かまいません」






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