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2009年5月

2009年5月31日 (日)

万葉集から 高丘河内連の歌二首

 高丘河内連(たかをかのこふちのむらじ)ってどんな人
   ハイ 「播磨国風土記を書いた人です」
百済からの渡来人で楽浪河内(サザナミのコウチ)という人が播磨に住んで居た
和銅5(712)年7月播磨の大目に任命される
和銅6(713)年5月天明天皇の詔をもって地誌の編纂・献上が下命された
 時の播磨守であった太石王は、若いが文才の有る河内に指示したものと思われる
霊亀元(715)年頃に編纂をおわり、朝廷へ差し出した
 播磨守に石川君子が赴任して来たのもこの頃である
養老4(720)年9月~5年4月にかけて播磨按察使が入って来て調査を行った
養老5(721)年から河内は皇太子(のちの聖武天皇)の側近として仕えるようになった
神亀元(724)年 高丘連を賜姓された
天平勝宝6(754)年に大学頭に任じられている

さて万葉集には二首が掲載されている、これは天平15(743)年秋頃の作ではないかと云われている
『故郷は遠くもあらず一重山 越ゆるがからに思ひぞ吾がせし』-1038
「故郷は遠いわけでもない 一重の山を越えるだけのことなのに 私は恋しくてならなかったよ」

『我が背子と二人し居れば山高み 里には月は照らずともよし』-1039
「あなたと二人で居ますと どんなに山が高くて里に月が照らなくても かまいません」

2009年5月24日 (日)

万葉集から遷任別離の歌

 藤原宇合大夫が遷任されて、京へ上りし時に常陸娘子が贈れる歌
『庭に立つ 麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまうな』-521
 神亀元(724)年四月、宇合は式部卿に栄転している(続日本記)ので、その時と考えて先ず間違いないと思う。

 石川大夫が遷任されて、京へ上りし時播磨娘子の贈りし歌
『君なくは なぞ身装飾はむ櫛笥なる 黄楊の小櫛も取らむと思はず』-1777
 霊亀元(715)年五月に、従五位下石川君子が播磨守に任命されている。その後養老三(719)年七月に後任が発令されている、しかし石川君子が京へ帰った(新しい職名)記事が見あたらないので、正確な時期は特定出来ない。

 送別の宴席では、この様な歌が披露され、座興としていたと思われる、何れにしても各娘子なる人物のオリジナリティーは低いのではなかろうか。

2009年5月18日 (月)

万葉集から無常

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 もみじは花から実に成り、やがて秋にはこれらの実が羽をひろげて、より遠くまで飛び散って行く。
    よのなかの無常を悲しみたる歌一首と短歌
『天地の 遠き初めよ 世の中は 常無きものと 語り継ぎ 流らへ来たれ 天の原 振り放け見れば 照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて 風交り もみち散りけり うつせみも かくのみならし 紅の 色もうつろひ ぬば玉の 黒髪変り 朝の笑み 夕へ変らひ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常も無く うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 とどめかねつも』 -4160
    返し歌
『言問はぬ木すら春咲き秋づけば もみち散らくは常を無みこそ』 -4161
『うつせみの常無き見れば世の中に 心つけずて思ふ日そ多き』 -4162

2009年5月 3日 (日)

'09灘校文化祭

273  灘校の文化祭が毎年5月2・3日に開催されています。
2日の午前中に見学してきました。
 9時のオープンでも8時半には既に大勢詰めかけて、それぞれの目的の前で待ち構えている。
 数多いイベントの中から化学研究部を覗いて見た、展示物の他に、実際に手に取って実験出来るものも幾つか用意されていた、しかしここは「化学マジック」が大人気で、今年は整理券を出して一回の入場者を80名限定としていた、12種目で約30分、そして今日は3回実施するとのことだった。
281  1番人気は「灘校グッズ」と「灘校弁当」それに「合格弁当」なんてのも有ったが私は「灘高せんべい」を買った。
 10時から勝谷誠彦氏の講演と、そして生徒とのパネルディスカッションが行われたが、会場はアッという間に超満員とかで、入れない人も多くガッカリ残念。やはりテレビに出ている人だからOBの中でも知名度は抜群、無理もない。

2009年5月 2日 (土)

万葉集からノイバラ

2307_2野茨

『美知乃倍乃 宇万良能宇礼爾 波保麻米乃 可良麻流伎美乎 波可礼加由加牟』

「道の辺のイバラの末に、這ほ豆のからまる君を 離れか行かむ」

 天羽郡の上丁 丈部鳥   20-4352

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