幕末狙われた日本 アメリカの場合
1845(弘化2)年アメリカはメキシコからテキサスを略奪した
アメリカのフロンティア拡張政策は西海岸に達しハワイ島を手中にした、そして太平洋を越えてアジアへの攻略が現実化してくる、その中継地として日本列島が注目視されだした。
この頃太平洋においては捕鯨が華々しく、アメリカ船735隻、その他の国が230隻出漁して年間1万頭のマッコウクジラが捕獲されていた。
アメリカは捕鯨船の補給地として日本が重要であると考えるようになった。
1848(嘉永元)年アメリカ国務省は「艦隊は直接江戸へ向かわせ、将軍もしくは幕府の部局の長に面会せよ、それ以外の下級役人などには接触を要せず」、「江戸湾を封鎖して品川を押さえよ」
1853(嘉永6)年7月8日アメリカ・ペリー提督が浦賀に来航。
2本の白旗と一通の書状が入った箱を日本側へ差し出した、「日本が鎖国の国法をたてに通商を認めないのは天の道理に背きその罪は大きい。通商を開くことをあくまで承知しないならば、我々は武力によってその罪を糾す。日本も国法を盾に防戦するがよい、戦争になればこちらが勝つに決まっている。降伏するときはこの白旗を掲げよ。アメリカは砲撃を止め和睦することにしよう」
撤退時は江戸湾深く進入して来て威嚇して帰った
ぺりーは日本へ来るのに行程がかなり遅れたために、上海で収容すべき人質の永力丸の漂流人が1名しか残って居なかったので激怒したが後の祭りだった。
1854(嘉永7)年2月13日ペリー再来航。
3月31日半強制的に日米和親条約を締結
アメリカ側は日本と交渉を重ねるにうちに、日本人の賢さ、強さ、何よりも統制のとれた上下関係等から、日本に対する認識を見直したと思われる。
例えば小型の汽車や通信機等の土産で度肝を抜くつもりだったのが、直ぐに慣れて簡単に操作したので仰天したという。
また祝砲と称して軍艦から大炮を威嚇を含めて打ち上げると、大音響には驚くものの空砲と分かるや、「待ってました ! たまやー」なんて喜ぶ様に唖然としたという

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