2011年12月30日 (金)

異聞忠臣蔵 -仕上げ-

 「おのおの方御苦労であった、思い残すことなく死んで貰おう。」
吉良上野介さえ亡き者にすれば、後はもう用はないから早く消えてしまえ、とこれが本音であったろう。
 事を性急に始末しようとすれば、世間を刺激して煩わしいから将軍や学者の名を利用して46人の処分を決めるべく見せかけていった。
 荻生祖徠は主君の意中の通りに「…公儀の免許もなきに騒動を企る事、法に於て許さざる所也、今四十六人の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処さらるもの…」と擬律書を幕府へ奉答した。しかるに何故か徳川実記には日光門主公弁法親王が「公より武士の道をたてて死を賜わらん…」と言上したと書かれている。
そもそも日光門主は赤穂浪士47人を「義士」と名付けた人であると世間でも評判の方であり、将軍に意見を問われた際も何とも答えられなかった、とも云われている人である。

 しよせん死を賜わるということは、切腹であろうと罪人として打ち首にされる事であり、又本人だけでなく家族も罪人の扱いを受けたわけである、
子供は遠島に処せられた、両親や妻は公儀に厳しく監視された、したがって世間を憚かって姓を変えたり、比較的風当たりの緩い天領へ引越したりと苦しい生活に追いやられた。

 やれ忠義だ、武士道だと、仇討ちをたき付け、指導した細井広沢は吉保の元家来
大高源吾を弟子にして、上野介の情報を提供した山田宗偏は柳沢グループの小笠原佐渡守の家来、そして引導を渡した荻生祖徠は勿論吉保の家来であった

 浅野内匠頭が何故江戸城にて刃傷に及んだのか、その真相は永久に分からないだろう。しかし刃傷・切腹・討ち入り・切腹の全てが柳沢吉保の主導で行われたということだけは真実だと言えるかも知れない 

2011年12月11日 (日)

異聞忠臣蔵 -時機を待つ-

 浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた事件については、伏せても隠しても、どこからか漏れ聞こえてくるもので、江戸城内では、おおよそのことが知れて来た、浅野は気毒だとの空気が高まり、やがてその空気は市井へも流れて行った
 操り人形の様に弄ばれた内匠頭の次は、その家来達が利用されようとしている、
浅野家の江戸詰だった藤井又左衛門・安井彦右衛門は国元の大石内蔵助に対して、復讐は思いとどまるようにと書き送った、

 内蔵助は思案に思案を重ねた
上野介は仇ではない、殿の本当の仇は公儀ではないか、その復讐をどうやるべきか、公儀に対しての「貸し」を取り返すには何があるか、そこで考えたのが内匠頭の弟大学の取り立てである(この時には弟大学は長矩の養子縁組が出来ていた)、もとより通用する話ではないが、せめてもの意志表示だった、

 一方江戸では堀部安兵衛・高田郡兵衛などが、その筋から後押しされ、吉良への仇討ちを急ぐようにとせき立てて来る

 9月2日、吉良邸が呉服橋門から本所へ屋敷替になった。「是は御公儀より内匠頭家来に討ち候へと被仰出たも同然の処置」と評判になった

 内蔵助は山科で派手な茶屋遊びを続けている、このところの内蔵助の心中は周りの者にも理解出来ない

 元禄15年7月18日、浅野大学は広島宗家へのお預けが決まった。
奥野将監等が犬死になるだけだとして脱退していった

ついに大石が重い腰を上げる時が来た

※9年後の宝永7年9月16日、弟大学は旗本ながら御家再興が叶った

2011年12月 8日 (木)

異聞忠臣蔵 -真相は-

① 勅使饗応とはそもそも朝廷に対しての幕府の一大イベントである、従って事前には早くから前例を参考にして綿密なスケジュール・一分刻み位の工程表が作成され十分に吟味されたうえで、関係者へ周知され、それに基づいて各々が役割分担を認識していた訳であろう
 当日になって、私情でどうのこうのと云っている場合ではないし、そんな暇もなかっただろう
 浅野内匠頭は吉良上野介に対して、遺恨など抱いていなかった、すくなくとも抜刀した時点でも殺意はなかったのではなかろうか

② 格式を重んじて、どの様な事にもそれ相応の対処の仕方が有ったにも関わらず、まるで強盗を捕らえた様なやり方である、
 五万三千石の大名が、切腹とは名ばかり、首が落ちたときには、まだ烏帽子が付いていたという話が漏れ聞こえるのをどう解釈すべきか

③ 細井広沢は柳沢吉保の元家来であり、堀部安兵衛とは昵懇の間柄であった
 上方の大石内蔵助等と江戸在住の安兵衛達と遣り取りした手紙は、悉く細井広沢に見せていたという
 討入りの前夜には、柳沢吉保からの「下されものでござるぞ」と、生卵を安兵衛達の居る長屋へ持参している、それまでにも吉良方の情報を知らせていたともいわれている 

異聞忠臣蔵 -発端は-

 元禄14年3月14日、江戸城内において、浅野内匠頭が吉良上野介に刀を抜いて切りつけた事件については、実に膨大な書物が飛び交っているが、事件の発端を究明したものには未だ出合わない。
 どうしても疑問に思える事を三点ばかりあげてみよう

① 場所といい、日柄といい、自分の立場上からも難解な行動である。浅野内匠頭は吉良上野介に対して刀を抜いたのは何故だろう

② 刃傷後、内匠頭は大名の格式相当の手順も法も無視した、前例を見ない早さで葬られてしまったのは何故だろう

③ 細井広沢が、喧嘩安兵衛こと堀部安兵衛に急接近して来て洗脳し、終始仇討ちの指導をしたのは何故だろう

2011年12月 6日 (火)

鳶魚が見た赤穂 附り

 伴蒿蹊は「浅野が潰れたので民は大きに喜び、餅など搗いて賑はいし…」と書いている。また三田村鳶魚は「…領民はひどく喜んでお祝いをした、殊に塩浜の者は、幾日か続けてお祝をした、という話を赤穂で聞いた、」と云っている。そしてその理由としていずれもが上席家老の大野が悪政だったからだとしている。
 ちょっと違和感をおぼえるが事実だったように思える、しかし真相は全く違っている

 赤穂藩では製塩を奨励して、新塩田開発のための助成金を出していた、塩のかま元である八田庄左衛門には2,200両を貸付ていた、しかし事件が起こり、藩が無くなったので塩浜の関係者はお金の返済をしなくてもよいのだと勘違いをして大喜びしたのではなかろうか。
 実際には藩の残務整理をキチント行なわねばならず、財政面の精算もあり借りた金は返さなければならない。

 急場のことゆえ十分の一のみ巳六月払い、残りは京伏見の大塚屋小右衛門より届けよ、ということになって金弐百弐拾両が六月三日に手形で収められている。
  ー大石良雄金銀請払帳ー

 残金の1,980両については、どの様になったのか分かっていない
 やっぱり、餅を搗いて祝うだけの値打ちはあったかも知れない

2011年12月 5日 (月)

師走ですが

 十二月に入っても暖かい日が続いているImg_000311
灯油を売りに来た車が元気なく帰って行く
野山の木々がやっと紅葉したなと思う間もなく暖かい雨に濡れる
畑の野菜が気温に翻弄され右往左往している

 あと数日もすれば二十四節季の大雪というこの頃に、菜の花が満開になっていた

2011年12月 3日 (土)

鳶魚が見た赤穂 Ⅱ

 鳶魚が取り上げた閑田次筆に四話、筆のすさびに三話、赤穂義士に関する話が掲載されているが、どうも義士一辺倒のように思える。討入りに参加した者は義士で、不参加者は不義といった調子である。

 伴蒿蹊の「閑田次筆」から抜粋
『 又ある人曰、赤穂の政務、大野氏上席にして時を得て、万をはからひしほどに、民其聚斂に堪ず。然る間、事起りて城を除せらるゝに及びしかば、民大きに喜び、餅など搗て賑はひしに、大石氏出て事を謀り、近来不時に借リとられし金銀など、みなそれぞれに返弁せられしかば、大きに驚きて、此城中にかやうのはからひする人もありしにやと、面を改めしとかや。
これまで大石氏は一向用られず、一とせの間には、六七度もさしひかへなどやうの、罪を蒙りしとなん。凡ソ世に人なきにはあらず。用る人なければ、千里の駿馬櫪(ウマヤ)に伏て終るを、大石氏は雪霜の艱にあひて、松柏の節を顕はせる成るべし。 』

2011年12月 2日 (金)

鳶魚が見た赤穂

 毒舌家で知られる三田村鳶魚が書いた赤穂事件に関する文の中で次のようなくだりがある
『 「浅野家退転の祝い」  私は先年赤穂へまいりまして、いろいろ話も聞きましたし、物も見せて貰いましたが、赤穂の浅野家が退散して、かしこを引き払う時分に、領民はひどく喜んでお祝いをした、殊に塩浜の者は、幾日か続けてお祝いをした、という話を聞きました。

 そういうことはほとんど何の本にも書いてない、赤穂で聞く話としては、ちょっと変った話でありまして、大抵は義士を自分のところの名産のように心得て、何でもかでも褒め立てる、何でも義士に縁故をつけて、珍重がっているところであるのに、そういう話をぽつりと聞くと、変に耳にとまる。何かに書いてないかと思って気をつけて見たが、義士書類には一つもそんなことはない。だが誰も知っている本の中に、その事実が書いてありました。…
 その一つは菅茶山の『筆のすさび』の中に「亡国弊政」という題で書かれたもので、赤穂の浅野家が潰れる前方は、大野某が執政であって、大石などは度々しくじって、閉門だの逼塞だのを、毎年食っていた、浅野家が潰れて、ところの者はかえって悪政がやんだといって喜んだ、ということが書いてある。
 もう一つは伴蒿蹊の「閑田次筆」それにも赤穂の政務は大野氏が上席で、万事を取りはからっておったので、民は収斂に堪えないで弱っていた、家が潰れたので、人民は大喜びで、餅を搗いて賑わした、と書いてある。
 そうしてみると、赤穂の人の話もいい加減な伝説ではなくて、実際、当時そういう有様であったということがわかります… 』

 民が政治を批判するのは普通のことであり、年貢とか税とかは安い方がよく、取り立てには不平を言うこともあるだろう。
どうも曲解されているようなふしもあるように思えてならない
 

2011年11月28日 (月)

山脇の神明宮

Img_15911 『山脇村神明宮ハ、慶長の頃東蔵坊といふ山伏所持の御絵像と云。則社地ハ東蔵坊屋敷也。東蔵坊ハ三木のといち坊などゝ同格の由申伝ふ』
(播陽万宝知恵袋-宝暦10年刊)による

 山脇村とは現在の姫路市四郷町山脇で、市川の左岸に位置している

Img_15891 祭神は天照大神と豊受大神
 かっては伊勢内宮・外宮にならって草屋根を葺き、檜の鳥居を継続していたそうだか、今は瓦葺きに変り桜の紋が入った瓦が使用されている
石造りに変わった鳥居には宝暦十二年と刻まれている、また石燈籠は元禄九年とある
 

 Img_158811

 東蔵坊のことについては、羽柴秀吉に攻められたとか、逸話もあるが、上記の「三木のといち坊」が三木市の伽耶院のことなのか、はたまた山伏の名前なのか等も含めてよく分かっていない

2011年11月16日 (水)

悪人のない御家騒動

 「悪人のない御家騒動」とは三田村鳶魚が寛延年間に酒井雅楽頭家で起った事件を書いた題名である。
 家老が同僚家老二人を殺し我が身も切腹したのを鳶魚は三人とも忠臣だったという訳である。
では本当に悪人は居なかったのだろうか、事件には必ず原因が有る筈、この場合の中心人物はズバリ雅楽頭忠恭公ではなかろうか。
 その理由として
・前橋から姫路への国替工作の主導者であった
・成功恩賞として正当な理由も無いまま法外な加増をした。
 受けた家来は断るどころか図に乗って勝手な行動をしている

 国家老川合勘解由左衛門にしてみれば、天災続きで不作の中を命がけで藩政に取組んで来たが、とうとう我慢が限界に達した、といってもまさか主君を斬るわけにも行かない。
身をもって忠告した次第であろう

それにしても勘解由左衛門はどうして極限の行動を取ったのか、又どうして三家老家とも息子が跡を継ぎ表向き何事もなかったかの様に収められたのだろうか

 酒井家は徳川家と同祖と伝えられる譜代筆頭の家柄であった
 慶長6年3月3日酒井忠重が武藏川越から厩橋へ入城した折に、家康は不満げの忠重に「関東の華を与える」と説得したという、この華が即ち川合・本多・犬塚をはじめとする十六騎の強者達であった、

 家康は江戸城に入城すると、周囲の要地に三河以来の譜代の重臣を配置し、他を直轄地及び旗本の所領として、江戸の守りを固めた、
前橋城しかりである。
 前橋市史には「忠恭が前橋城主であった寛保2年に大坂城代として所領の一部を姫路へ移され、その豊かさを知っていたと思われる、又松平氏の転封予告の内命には、老中首座として署名している、犬塚又内の進言はあったとしても、とに角忠恭は姫路と前橋の交代転封を命じた幕閣の責任者であった」と記述されている
 従って忠恭がこの転封劇を主導し、犬塚又内らは、その成功のために奔走したのではないかと思われる。
 藩内は突然の転封を聞いて、家臣も領民も動揺した、この転封を受るか否かにおいても意見が割れて、対立は根深かったようである

 事後処置については、川合勘解由左衛門の遺書があってのことか、忠恭公の判断なのか、或いは家老格だった松平主水の処置なのか真相はよく分からないが、川合・本多・犬塚三家共神君家康公から派遣されて来た家柄であったことは事実のようである