異聞忠臣蔵 -仕上げ-
「おのおの方御苦労であった、思い残すことなく死んで貰おう。」
吉良上野介さえ亡き者にすれば、後はもう用はないから早く消えてしまえ、とこれが本音であったろう。
事を性急に始末しようとすれば、世間を刺激して煩わしいから将軍や学者の名を利用して46人の処分を決めるべく見せかけていった。
荻生祖徠は主君の意中の通りに「…公儀の免許もなきに騒動を企る事、法に於て許さざる所也、今四十六人の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処さらるもの…」と擬律書を幕府へ奉答した。しかるに何故か徳川実記には日光門主公弁法親王が「公より武士の道をたてて死を賜わらん…」と言上したと書かれている。
そもそも日光門主は赤穂浪士47人を「義士」と名付けた人であると世間でも評判の方であり、将軍に意見を問われた際も何とも答えられなかった、とも云われている人である。
しよせん死を賜わるということは、切腹であろうと罪人として打ち首にされる事であり、又本人だけでなく家族も罪人の扱いを受けたわけである、
子供は遠島に処せられた、両親や妻は公儀に厳しく監視された、したがって世間を憚かって姓を変えたり、比較的風当たりの緩い天領へ引越したりと苦しい生活に追いやられた。
やれ忠義だ、武士道だと、仇討ちをたき付け、指導した細井広沢は吉保の元家来
大高源吾を弟子にして、上野介の情報を提供した山田宗偏は柳沢グループの小笠原佐渡守の家来、そして引導を渡した荻生祖徠は勿論吉保の家来であった
浅野内匠頭が何故江戸城にて刃傷に及んだのか、その真相は永久に分からないだろう。しかし刃傷・切腹・討ち入り・切腹の全てが柳沢吉保の主導で行われたということだけは真実だと言えるかも知れない




